7月31日 静岡
2006年 08月 01日

夜、不意に目が覚めたので書く。
眠くなるまで書く。
去年インドネシアにつれてってもらった先生に招待され、先生の実家にいってきた。
一泊二日、静岡県沼津市の旅。
先生には奥さんと3人のお子さんがいて、5人家族。その帰省に混ぜていただいたという感じだ。
昨日の花火は静岡は沼津、狩野川河川敷で行われたもの。
隅田川に行ったわけではない。
ましてや女の子と2人でいった訳でもない。
今年は花火をみないつもりでいた。
花火の規模で言えば、小さいころから見ていた足利の渡瀬川の花火や大学入ってから見た東京や埼玉の花火たちより明らかに小さいけど、発射場所からの距離が結構近くて、ドヒュン、ドヒュンと発射する瞬間の迫力を味わうことができる。
橋の上だと火の粉が降りかかってくるくらい近い。
味わいもまた違った感じ。
狩野川は素敵な川だった。
けしてきれいな川ではないが、街や人の生活の中に生きていた。
川縁というのは好きです。
生活圏内に川がないのが寂しい。と東京きてから思っている。
地元には蛇尾川という寂しい川がある。たまにぼんやりしにいっていた。
川がない寂しさがあるのと、寂しい川があるのとでは後者がいい。
狩野川では高校のボート部が練習をしていた。
頑張っていきまっしょい!の世界だ。
彼らが謳歌しているように見える青春は俺の青春とはうまく重ならない。よくも悪くも。
うまいビールを大量に飲んだ。
うまい海鮮丼を食べた。
うまいさばのあぶりを食べた。
うまいいかの塩辛を食べた。
うまいいかそうめんを食べた。
うまいうなぎを食べた。
うなぎの肝を食べた(初めて食べたので比較不可)。
うまい生ハムとチーズを食べた。
うまいポテトサラダを食べた。
うまいお新香を食べた。
松茸を食べた(初めて食べたので比較不可)。
うまいステーキを食べた。
全部ご馳走になった。
あまりにも贅沢をさせてもらったので、俺、無事に東京まで帰れるのかな、と考えた。
太らさせられて食われるんじゃないかとか。
無事帰ってこられた。
一週間飲まず食わずで生きられそうだ。
海水浴に、祭り。
水着に浴衣、女の子がとてもよい。
とくに、ちっちゃい妹弟をつれてる娘さんあたりが。
雑念。
どうせなら、単純に雑念「俺って汚いなぁ」と思って終わすことができる雑念だけにしといてほしい。
夏休みは幸せそうなファミリーだらけです。
祭りでは、テキ屋を観察。
人がうまく流れているかき氷屋。
20秒で300円のかき氷をひとつ売るとすると、1分900円、1時間54000円、祭りを4時間と見積もって一晩で216000円。
元手なんて氷とシロップだもん大したことない。
ボロ儲け。
すげぇな。
そのかき氷屋の工夫。
うまくスピードを調整して列をなくさないようにしている。
常に客が並んでいるように。
あと、大げさなくらいのアクションでシロップをかける。
一種のパフォーマンスなんだろう。
かき氷ってのは祭りにくる客のどの層も対象に売れるってのも強みだ。
虫を取りに行った森は社会福祉施設の敷地で、そこの職員さんに施設を案内してもらった。
子供を育てられない親の元に生まれてきてしまった子のための、あるいは親がすでにこの世にいない子のための施設。
だけど建物からしてロッジみたいな雰囲気だしていたりして、施設っぽさなし。
大家族みたい。
こういうものを作りたいと思わせた。
ちょっとみたくらいじゃわからない裏とかあるのかもしれないけどね。
蝉の抜け殻を見つけた。
ブログの名前の「空蝉の森」の空蝉とは蝉の抜け殻のこと。
何と何を重ねてみている?
またアナロジーとか言い出します。
歌詞や小説にも大量のアナロジーが含まれている。むしろアナロジーなしではなりたたない。
アナロジーって訳すと類似、何かと何かが似てること、つまり何かを「何々のようだ」って説明したらアナロジーを使っている訳だ。
比喩は類似を見いだせなければ使えない(はず)。
勿論隠喩(メタファー)でも同じだ。
春樹がカフカで「世界はメタファーだ」と言ってるのが、俺には結構すんなり受け入れられるのです。
とっくに眠くなっていたが勢いがとめられず。
最近、アウトプットの弁に異常が見られる。
寝ます。

