7月28日 バリ島スカワティ村の影絵芝居・・・門前仲町・富岡八幡宮
2005年 08月 03日
まあ、ミュージカルも多分演劇の方にいれてしまうのと同じ理由で「演劇」だろうな。
芝居と音楽がある場合、それは基本的に「芝居」なのでしょうな。
芝居のための音楽はたくさんある気がする。
音楽のためにある芝居ってのはあるのか?
最初から脱線。
音楽科研究という授業の先生に飯田先生という人がいる。
様々な民族音楽を外国行って学んできた人なのだ。
生き方とか垣間見える思想(というとおおげさだけど)に惹かれるものを感じている。
授業では、身近なところにはないいろんな音楽を演奏してくれた。
その人が一番時間をかけて本格的に学んだのがグンデルワヤン、別名ガムランという、インドネシアの楽器。鉄琴みたいな構造で、金属の鍵盤があって、その下には長さの違った竹の筒がある。鉄琴みたいというか、分類すると鉄琴の一種なんでしょうな。金属の鍵盤を、片方のおもりが取れたバーベルみたいな形をしたばち(?)で叩いて音を出す。
叩くと、金属が叩かれたために出る音と、竹に響いて出る音と二つの音が出る。その高さは違って、一音でも不思議な和音になっている。それを早く細かく叩くから神秘の世界!って音楽になる。圧倒された。
バリ島からグンデルワヤンの本場の超一流の人らがくる、しかもただだというので、これは行くっきゃない!と思って行ってきた。
日没スタート、というのがいい。だが実際何時にいけばいいかわからなくて多少困った。
影絵芝居と音楽だったので(まあ音楽含めて影絵芝居なのでしょうが)、幕を張って、ツボみたいなのをぶら下げて火をともして、人形を使ってやった。人形は牛の皮で出来ているらしい。その人形がやたら精巧に、細部まで彩られている。影絵なのだから、輪郭の形とくりぬいた部分しかスクリーンには映らないのにもかかわらず。見えない部分にも気を抜かないってのは江戸の文化かなんかだっけか?それと似てるのか…。知らずに適当なこといいました。ごめんなさい。
ストーリーはあっちの言葉だからよくわからなかったのだけど、動物がやたらたくさん出てきた。人形何十本と使っていた。一人の語り手がほとんど全部一人でやる。サポートの人が横にいて人形渡したりはしてたけど。
演奏はグンデルワヤンの奏者4人。楽譜にすることはなく全部習って覚えるそうな。伝承というのですかね。民族音楽ってそういうの多いんでしょう。
脱線します。西洋で発達した音楽の理論ってモノはいろんな音楽を分解して取り入れてきたのだろうなって感じる。このことに関して知識はあまりないので、雰囲気です。俺がそうなんじゃないかって思っているだけ。
理論の力ってのは強大だ。楽譜だの音符だのってのは様々なものを飲み込んでいく。楽譜や音符ってのは音楽の伝達ツールなわけですよ。すると言葉と同じだ。
楽譜や音符を否定するなんてことはもちろんしないけども、楽譜に直してしまうことで失われるものもあるのだろう。だから伝承って形式が残る。未開で、楽譜の理論や力を知らないから取り入れてないなんてあるわけが無いし。知ってて取り入れてないのだと思う。
紙に書かれた言葉のイメージが、口に出したときの言葉のイメージから乖離するように、音楽から離れていくものもあるのだろう。
何がいいたいのかよくわからなくなってきたけど、そんなふうに感じたし、音楽ってのは幅が広すぎる!ってことは思った。そして演奏は楽しめた。
つけたし。
楽譜に直してしまうことで失われるものがあるとするなら、言葉にすることで失われてしまうものもあるんじゃないのか。細部の感情だとか意図だとか意味だとか・・・。
「こういう分析が世界を単純化しようとしているのか、細分化しようとしているのか私にはよくわかりません。」これは春樹の『ノルウェイの森』の、直子の手紙の中に出てくるのだけれど、音楽や感情意図意味などを楽譜や言葉に直すことも、その「分析」と同じ意味をもってしまうのでは無いかと思う。
さらに脱線すると文学とか社会学ってホントに世界(作品内世界や社会)を単純化しようとしているのか細分化しようとしているのかわからなくなるときがある。
今回の脱線具合は我ながらにすごい。