むなしさって
2005年 01月 19日
虚しい、空しい。
ひらがなの方がピッタリくる気がする。
喜怒哀楽ってみんな脳内物質のせいなんでしょ?
楽しい事や悲しい事がなくても脳内物質さえ分泌されれば楽しくなったり悲しくなったりするわけだ。
これだけ聞くと、まあ、だから何?という感じ。
どういうときに脳内物質が分泌されるかってのが焦点になるだけで、俺の関心には触れないのだ。
よくわからないが俺は理由なくむなしさに襲われることがある。
これは他の人にもあるのかね。たまに尋ねてみたくなる。
むなしさを感じさせる脳内物質を出す部分が正常に働いていないのではないのだろうか?
どうでもいいときに垂れ流したりしてんじゃないのか。
帰宅途中に、自転車こいでて唐突にむなしさに襲われて目の前に
踏み切り
電車が通る。
むなしさっていう感情は嬉しさや悲しさと違ってよくわからない。
俺がむなしさといっているものが他の人にとってはむなしさじゃない何かなのかもしれないし、他の人がむなしさといっている感情は俺のとは別物なのかも。
よくわからないのですよ。
もうまとめられないと思うので思考が派生した方向に書き連ねる。
人が感じていることって確認できない。
他人が見てるものが見えることはない。
他人の感情を完全にわかることはできない。
俺がみどり色に見えているものが、あなたには黄色に見えるとします。
そこで、俺がみどり色に「あか」という名前をつける。
あなたは黄色に「あか」という名前をつける。
俺の世界ではみどり色の花があって、君の世界には黄色の花がある。
でも会話は成立する。共感も出来る。
俺「これ、あかいね」
あなた「うん、あかいね」
ほら。
俺が触れてざらざらに感じるものが、あなたにはつるつるに感じるかもしれない。
でも、俺がざらざらという感覚を「つるつる」という言葉で認識していたら、俺もあなたもそれはつるつるだという理解で一致してしまう。
俺は何もそれが悲しいとか云うわけではないです。
それは考えたって仕方の無いことかもしれない。
でも、勘違いしてるのかもしれないじゃん。
何か大きな勘違い。
たとえば、俺が悲しさを感じないとする。
でもその人「身近な人が死んだ時に起こる感情が悲しい」だ、と知識で理解してしまえば、身近な人が死んだ時に他の感情が胸のうちにあったって、それを「悲しい」という感情だ、と理解してしまうんじゃないのか。
人を「好き」という感情って、本当にみんながみんな感じているのかね。
SEXをしたいという感情(感情か?)を人を「好き」という言葉で理解してたりするんじゃないのかね。
俺はこの二つには多きな隔絶があると思うのですよ。
何だかよくわからなくなってきた。
終わり。
踏み切り
電車が通る。
これいいね。
星君の歌はなんでこんなに悲しげなんだろう、と思っていたところなのだ。