学童

なんで学童保育の指導員をしているのか?その37―1950年代の遊び文化について

なんで学童保育の指導員をしているのか?その36―放課後についての続き。

前回書いた4つの項目に対して説明するために、今回はひとつの本を紹介する。

遠藤ケイ「誰もがもう一度やってみたいこども遊び大全」

作家でありイラストレーターである遠藤ケイさんが、絵と文で自分が子どもだった時にやって来た多種多様な遊びを解説している本だ。
目次に書かれている項目は以下のとおり。

「ベーゴマ、ビーダマ、メンコ、クギ遊び、たが回し、陣地遊び、竹馬、馬乗り、石けり、ジャンケン、こま遊び、竹トンボ、草笛、紙ヒコーキ、ケン玉、鉛筆野球、けんけんがえ、カン蹴り、だるまさんが転んだ、トンボ釣り、虫のいたずら、スズメ捕り、鉄砲、ちゃんばらごっこ、変装ごっこ、草木相撲、釣り、字隠し、レントゲン、凧合戦、将棋遊び、玉かち、竹スケート、ゴム跳び、縄跳び、かごめかごめ、とおりゃんせ、鬼ごっこ、まりつき、石けり、お手玉、おはじき、あやとり、折り紙、指遊び、貝遊び、ハンカチ遊び、影絵、らくがき、糸でんわ、しゃぼん玉、ままごと、草花遊び、おしゃれ遊び、みかん釣り、羽根つき」

これらの項目ひとつにつき、数頁にわたって遊び方や用語の説明が書いてある。それだけではなく、その遊びを子どもたち(つまり当時の遠藤ケイさんたち)がどのようにとらえていたのかがしっかり書かれている。

僕はここに載っている50年前の遊びの豊かさに驚いた。
みなさんはここに載っている遊びをいくつ知っていましたか?いくつやったことがありますか?
僕は、半分くらいしか知らなかったし、知っているうちの半分も実際にやったことがなかった。解説を読んで、知識としては知っている遊びでも、自分がやったことのないものだと、その醍醐味がわかっていないものだな、と思わされた。
 遊びの数もすごいが、ひとつひとつの遊びが深い。例えばビーダマひとつとっても、僕はただビーダマを当てて取り合う遊びしかやったことがなかったが、この本では「島出し」「星ビー」「まる」「穴一」「ポリボックス」「くるみ打ち」などという様々な遊び方を教えてくれている。また「ネムリ」「エサ」「尺取り」「ホンコ」「スラコ」などの用語・ルールがある。そういった深い遊び文化のなかでこどもたちは過ごしていた。
 遠藤ケイさんは1944年生まれ。ということは、1950年代の遊びが載せられているのだろうから、ここ半世紀で、多くの遊びが伝承しなくなって、伝承しているものからも深みが失われてしまったものもある。そういう状況なのだろう。

あとがきのケイさんの言葉にも感じるものが多かったので、たくさん引用する。
「昔は、貧乏人の子だくさんではないが、“産めよ増やせよ”などという国家高揚のスローガンの尻馬にのせられて、どこの家もこどもでいっぱいだった。挙げ句、親は一層生活に追われ、こどもにかまけている余裕がなかった。こどもたちは、親に甘えられない寂しさを感じながらも、否応なく自立心を植えつけられ、親の目が届かない自由を謳歌し、元気いっぱいに遊んだ。
 家から溢れ出したこどもたちは、町内の路地や空き地、あるいは神社の境内に集まって遊んだ。ニキビ面の年長の子から洟たれの小さな子までの異年齢の集団が、ガキ大将に統率され、種々雑多な遊びに熱中し、ときに聞きかじったおとなの世界の話を噂し合った。
 戦後の困窮の時代、子どもの玩具はなかった。あっても買ってもらえる子は少なかった。男の子は六、七歳にもなればポケットに肥後ノ守ナイフをしのばせていて、それで遊び道具や玩具を自分で作った。竹馬、こま、竹トンボ、竹鉄砲、石鉄砲、パチンコ、弓矢、凧、糸巻き戦車、笛など、ありとあらゆるものを作って遊んだ。こどもたちは駄菓子屋で買った安価な肥後ノ守を研いで切れ味を自慢し合い、自作の玩具で技を競い合った。そうした遊び道具や玩具は、年長の子のを見て、自分で創意工夫をした。親の手が入っているものは仲間内で軽蔑された。」

「こどもたちは、既存の遊びやルールにこだわらず、自分たちで自由勝手に変え、新しい遊びを作り出した。野球は、人数がたりないときや、狭い路地でやる際には、三角ベースにしたり、一塁ベース代わりの電信柱やゴミ箱を触って本塁に戻ったりした。ホームランを打つとアウトになったりもする。
(中略)ベーゴマ、メンコ、ビーダマ、ケン玉、こま、竹馬、たが回し、駆けっこ、相撲等々、こどもたちにはどれか一つは誰にも負けない得意技があり、勉強ができなくても、それだけで仲間から一目おかれた。
 路地や空き地はいつでもこどもたちの明るい完成や笑い声が響き、元気に育つことだけを願った親の目を細めさせた。
 あの悪しき時代に、こどもたちは天真爛漫に育った。男の子はどの子も虎刈り頭に洟テカ、ツギだらけの服にゴム短靴という格好で徒党を組み、町を闊歩した。ときには危険な遊びをして生傷の絶え間がなかったが、赤チンは男の勲章だった。親もまた、おとな社会とこども社会に明確に一線を画し、無遠慮に立ち入ることはしなかった。こどもが怪我をさせられてきても、相手の家に怒鳴り込むようなこともしなかった。こども社会には、おとな社会に比する集団のルールがあることを心得ていたし、親自身もそうやってこども時代をすごしてきた。」

「決して豊かではなく、いい時代ではなかったが、溢れんばかりの家族の愛情と絆があり、こどもの創造性に富んだ遊びと自由がふんだんにあった。
この本は、三十数年の年月をへだてたこども時代の記憶をたぐりながら、描き加えていったものだが、あらためて、こどもの遊びの数の多さに驚かされる。そして、同時に、自分たちが子を持つ親になったいま、こどもたちの創造性を熟成させる遊びや、自由な時間の少なさに気付いて驚愕する。
こどもの特権である、活気に満ち眩しいばかりに熱い時代は、遠い記憶の中にしか存在しないとしたら寂しいことである。それは単に感傷に過ぎないのだろうか。むしろ、そうであってほしいと願わずにいられない。」

自分たちが子どもだった頃は、どうでした?
今の子たちの環境は、当時と比較してどうですか?

なんで学童保育の指導員をしているのか?その38に続く
Commented by おねぎ at 2012-01-07 00:59
こんばんは。
突然のコメント失礼致します。
神戸で学童保育の指導員をしている者です。

龍の折り紙について検索していたところ、偶然こちらのブログに辿り着きました。
そして、学童という言葉に反応し、ブログを拝見させていただきました。

今の学童保育の現状をどうにかしたいと考えていた私にとって、
とても共感できる部分が多く、
途中から目が話せなくなりました!

私の働いている学童は民営で、指導員同士で切磋琢磨しながら子どもたちと向き合える恵まれた環境の中にいると感じています。

しかし、研修会などで出会う市の学童の現状を聴いていると、「いや、もっと子どもをちゃんと見ようよ」ということが多々あり…今の世の中的にももっと認知され重点化していくべき事業ではないかと、常日頃から感じています。

私は考え方も浅く、世間知らずの部分も多々あると思いますが、また明日からがんばっていこう、そしてさらに勉強をしていこうという気持ちになりました。
ネット上ではありますが、この偶然の出会いに感謝です。
場所は離れていますが、同じ指導員として応援しています。

長々と失礼致しました。
Commented by hoshimasato at 2012-01-08 21:55
>おねぎさん
初めまして。学童保育の指導員さんなのですね!お仲間ですね♪
偶然の出会い、とても嬉しいです!
僕も、学童関係のことで頑張っている指導員や保護者との出会いに育てられ、助けられ、ここまで来ています。
ネットの上でも、いい出会いもたくさんありますよね!

僕は学童の指導員として働きながら、もっと大きい枠組みを変えるべく、動いている最中です。
お互い頑張りましょう!

いつかどこかで(全国研などで)出会える日を楽しみにしています!
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by hoshimasato | 2011-08-21 23:15 | 学童 | Comments(2)

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