死について
2004年 12月 19日
その人は、「人が死んだ時、同じ死なのに悲しまれる死と悲しまれない死があって、それが悲しい。そして、自分も人が死んだ時、同じように悲しめないことが悲しい」といっていた。
感情先行型論理的人間を自称する俺は、その意見を受け入れることは感覚的に納得いかなかったため、ぐだぐだと考えてみた。
まず悲しまれない死などほぼ無いと思う。
何十人もを殺した猟奇殺人者が死刑になったとする。彼の母親は彼の死を悲しむはずだ。
悲しまれる死と悲しまれない死があるという考えは、「自分が悲しめる死と悲しめない死がある」という考えを変に拡大解釈してしまっているのではないか。
その人は「人の死は平等でしょ?」ということを言っていた。
もちろん死は万人に平等。
誰にだって訪れるし、いつ訪れるかわからない。
でも、死に対する他人の悲しみが平等だとは思わない。
悲しみの深さは付き合いの長さとか、思い入れの深さとか、俗っぽい言葉で言うなら「愛」とか、そういうものにある程度比例するのは当然のことだと思っている。
死というものが喜ばれるべきだとは思わないけど、悲しまれるべきだとも思わない。
知らない人が死んだ時、悲しめるか?
俺は無理だ。
(「知らない人が殺された時、悲しめるか?」という問題とは違う)
死というものが人に与える悲しみは平等である必要性は全く無い。
そう強く思う。
今までの意見は、
「俺は家族や恋人や友達が死んだら見知らぬ人が死ぬよりも絶対に悲しいし、その悲しみは絶対に「平等」であってなんか欲しくない。
そして、自分が死んだら知らない人なんかより家族や恋人や友達に悲しんで欲しい。」
という感情に基づいて後付した理屈です。
そして、「人の死を平等に悲しみたい」と思うのは博愛主義に浸されたとてもエゴイスティックな意見に思えるのです。
しかし、理解することは出来なくても、「人の死を平等に悲しみたい」という初対面の女性の感情も、人の感情である点において俺の感情と同様なものだとは思うのです。