自信がなかった。
これには二度の教育実習の体験も大きいと思います。
学芸大学では、三年時と四年時に一度ずつ、計二度の実習があるのです。
一回目の実習では、付属の小学校で、一年生のクラスについた。
「遊びの中に学びを見出す」というのが、そこで学んだすべてといっても過言ではない。
子どもは、遊びとして楽しんでやっている行為の中に、授業者が学びを見出す。
学校では指導要領があって教えなくてはならないことが決まっているので、好き勝手遊んでいればいいわけではない。
その指導要領を踏まえて楽しんでやれるプログラムをセッティングする、というようなことに全力で取り組んだ。
中学生や高校生の頃って、つまらない先生の授業を見て「俺の方が面白い授業ができる」とか考えることもあるけれど、
ただエンターテインするだけはダメなんですよね。
エンターテイナーと教育者は違うので。
エンターテイナーの前では、子ども達は受け取る側、になってしまう。
子ども達を楽しませるということを突き詰めていくと、「子ども一人ひとりの興味・関心に沿って、適切なプログラムを設定する」ということが最高の授業になってしまう。
でも、学校はそういう空間じゃないんです。集団でいる意味があるんです。
学びが伝播したり、共鳴するような効果がある。これは一人で学習するだけでは絶対に生まれない価値なんです。
それを最大限に引き出すべきなんです。
それは、一方的に受け取るだけでは生まれない。子どもが主体的になってこそ生まれるものなんです。
(すごいザックリした話ですみません。突っ込みどころ多いと思いますが、とりあえず先に進みます。)
ただ、「主体的とはどういうことか」というのは本当に難しい問題で、
この頃から今までの課題になっています。
二度目の実習は、五年生のクラスだったのだけれど、正直ボロボロでしたね。
だって一回目の実習で学んできたことがほとんど使えないんだもん。
五年生の授業の中で、遊びを中心に授業を組み立てるのはかなり厳しい。
指導案を作る数も全然違うから、それでも悪戦苦闘して遊びを軸に・・・と考えていた。
それに実習の途中に彼女にフラれるということもあって、
最後のあいさつのときなんて、
「大人は何でも知ってると思っているかもしれないけれど、対して何もしらない。
いろんな場所で、『なんでこんなことがあり得るんだ』ってことがたくさん起きている。
けど知ろうとしてる大人もいるし、どうにかしたいと必死で考えてる大人もいる。」
とかいってたなw
子ども達を相手にするということの重大さが実感としてのしかかってきた次期で、
子ども達に向けて発する言葉一つ一つが自分に返ってくるような感覚があった。
子ども達の前で胸を張っていられる自信を持っていなかったのです。
その根底に、「何も知らない」という感覚があった。
続く

大人は子供より長く生きている・経験があるというだけで、成長しなければならないのは同じ。
難しいですね。

実習のときは、2年生と3年生だったけれど、違いはそこまで感じられなかった。
でも、今思えば、全然違ってたのにな、と思います。
違いを踏まえて、準備することはそのときは全くできなかった。
「何も知らない」まま飛び込んでしまった私。
3年目の今でも悪戦苦闘中です(笑)

先生は何でも知っていると思って疑わなかったな。
しかし、自分が大人になると、すべての回答を持った人間など存在しないことに気が付いた。
結局は、人間に必要なことは、知識を集めることも重要だけど、他者を知る、共に生きる社会の必要性を肌で感じることの出きる環境ではないかと考える様に成ってきた。それを考え、感じる大人に育つ為には、どの様な教育が必要なのかは分かりませんけど…。
「大人も成長しなければならない」っていうのって、現代の感覚だという話を聞いたことがあります。
昔は、自分で稼げるようになったら「一人前」。今みたいにそれからの成長が必須、という感覚じゃなかったそうな。
何でも進む速度が速くなってしまったからねー。
いろんなものを取り入れていかないとついていけんです。
>結局は、人間に必要なことは、知識を集めることも重要だけど、他者を知る、共に生きる社会の必要性を肌で感じることの出きる環境ではないかと考える様に成ってきた。
これには強く同意。
これは学校教育でどうこうできる問題じゃなく、
たぶん人間にまみれて育つことが必要なんだろうと思っています。
こういうことものちのち書くかも。