最近は考えたことを文章にまとめるのが難しくなってきている気がします。
何か一つのことを言おうとすると、
それの前提に置いている考えを説明しなくてはいけないような気がしてしまう。
で、もちろんその考えにも前提があって・・・。
全部を追い切れる訳はないので、どこか自分がしっくりくるところでまとめたらいいのだけど、
それができないから、こんな文章を書いているわけですよね。
でも、自分がいろんな物事にどんな考えを持っているかについて、
言葉にしたいという願望は強い。
言葉にしたいと思って、文章にしようとする作業の中で、
自分がどんな考えや嗜好を持って、どんな場所に行きたくて物事を考えているんだかを、
なんとなく分析できるようになってきた気がしています。
そして、それをおやすみ世界にまとめていきたいと思っているのです。
何かひとつかけたら、それを前提として次に、次にと、ゆっくりでも書いていける気がする。
ところで、今日、ある友人のブログでこんな文章を見ました。
「自分がやられて嫌なことは周りにもやらない。」
友人が使っていた文脈からは切り取って、この言葉について考えてみたい。
幼稚園か、小学生の時に、よくいわれませんでしたか?この言葉。
この言葉については昔から思うところがあるのです。
その「思うところ」は、僕自身の価値観の中核をなしている気がするのです。
この言葉について語れば、いろんなことを芋づる式に語らざるを得なくなる気がする。
だから、ここをとっかかりに何か言おうかな、と思ってます。
ちょっと言い換えますが、
「やられて嫌なことはするな」
この言葉について、みなさんはどう考えますか?
また、数日後に。
何の前振りもなくその言葉を聞かされたら
「わるいことはやっちゃだめ」
という言葉に変換されて理解してる気がします。
が、改めて、その言葉について考えろといわれれば
価値観は人それぞれ、十人十色なわけで、
自分がやられて嫌な事をやっていなくても、
相手が嫌がってる可能性はあって
やられて嫌な事をやっていないから自分は大丈夫、と
盲目的に信じることは危険なことで、あまりよろしくないと感じます。
以上!きっと教科書的なつまらない解答と思われる俺の考えでした。
おひさしぶり。
なんだか面白い話だね。
要するにあらゆるレベルでの「倫理」の問題な気がする。
こんな命題はどうでしょうか?
“「赦す」ということは不可能であり、かつ行われなければならない。”
普通に許容できることを認めるのは簡単。
それはただ「認可」しただけ。
「ゆるせない」ことを受け入れて初めて「赦す」ことになる。
としたら、「赦し」の行為はそれが行われた瞬間に自己矛盾に陥り、さらに高レベルの「赦し」の行為の遂行の要請として立ち現れることになる。
しかしながら、戦争責任問題にしても、死刑制度にしても重要なのは「赦す」ことができるかどうかであり、根本的には(「目には目を」を否定したいのであれば)「赦す」こと無しには民主的な社会は機能しないように思われる。
したがって、「不可能である「赦し」は遂行されなければならない」という命題に行き当たる。
続く。
さて、参考になりますか?
個人的には、この矛盾というか緊張関係は改善されないものだと考えています。
むしろおおよそ倫理や道徳の問題は「命令調」や「キャッチフレーズ」ではなく、「自己矛盾そのもの」もしくは「緊張関係の只中にあるもの」としてのみ、提起されるべきだと考えます。
長々と失礼しました。
面白い問題だよね。
すごいですね。そこまで飛んじゃいますか。
俺もほとんど同じこと考えてます。
>としたら、「赦し」の行為はそれが行われた瞬間に自己矛盾に陥り、さらに高レベルの「赦し」の行為の遂行の要請として立ち現れることになる。
ここだけよくわかないんですけど。どういう意味なんですか?