一言:人間ってこわっ!自問する姿勢を持たなきゃと思った。
スタンフォード監獄実験を元に作られた作品と前もって知っていた。
スタンフォード監獄実験とは、
「無作為に人を集めて看守役と囚人役を割り振り、囚人役を監獄に入れる。
そうすると人はだんだんその役割の通りにふるまうようになる。
暴力が行われたり囚人に精神障害が出たりしたため、
実験は最初の予定よりも早くに辞めざるを得なかった」
といったものです。大筋は間違っていないはず。
記者がいたり軍人がいたり、
設定は結構変えられているみたいだけれど、
変える必要あったのかな?
実際に会った話に演出を加えれば十分だと思うのだけど。
まあ、設定変えても変えなくても、
ああいった閉鎖した環境での恐怖はリアルに再現されていると感じる。
役割によって、人は変えられてしまうのだろうか。
俺らに身近な役割といえば、職業によって与えられるもの。
世の中には様々な職業がある。
生まれた時から職を持っている人はいないわけで、
俺らの社会でも、役割はあとから与えられる。
その役割によって、捻じ曲げられていないか?
当たり前のようにしていることで、怖いことになってはいないか?
身近なところだと、教員、警官なんかは、与えられた役割に捕えられがちな気がする。
役割が与えられてもまったく変わらない、ということは絶対にないけれど、
時折自問する姿勢が必要だ。

皇室、ものによっては宮司もそうだ。
esとはすなわちidのドイツ語表記なわけで、元は全てフロイトなわけです。
この場合、簡単に言うと、人間は快楽原則に従って生きているだけなんじゃねえのかっていう疑問の投げかけ程度の意味合いだろうと思われる。
恐怖の度合いとしてはミザリィに近いものもあるけど、俺も、わりと考えさせられるいい映画だと思う。
エンターテイメントとして観るのにはお勧めできないけどね。

ドイツ語訳だけならes=itでしかないね。
原題では「実験」のに、意味ありげに「es」とするのは汚いと感じてしまう。
内容は非常に興味深いけど、もっと坦々とした内容にして欲しかったなぁ。
特に終盤の流れって陳腐なエンターテインメントに終わらせちゃったなぁ、と。
身近なところだと教員や警官とあるけど
どの職業に対してそう感じるかは人それぞれじゃない?
医者なんかも同じように感じるし、何かしら権力を行使できるようになった瞬間に、その役割を演じてしまうんじゃないか?
うちの副社長は、昔は会社や上に意見しまくってたのに、副社長になった途端に事勿れ主義に転換しましたよ。
警官なんかが「○○たれ」と自分を役割付けするのは、ある意味必要なんじゃないか?
自分のやるべきことや責任を自覚するという範囲で。
「役そのものになる」ことは問題、「役を演じる」ことは必要。
あくまで「役」だと理解できるかが大事なのかな、と。
人は子どもができたら親を演じなければならんよ。
長く書いてたらよくわからんようになってきた。
終盤の流れについて、同意。
俺も願望としてはもっと坦々とやってほしかったかなぁ。
でもきっとノンフィクションというより、エンターテインメントとして作りたいんでしょう、というのが明らかに見えたので、こっちもそういう風に楽しんだ、かな。
陳腐かもしれないけど、俺はまあ楽しめましたよ。
確かに医者にも感じるわ。
何の職業を身近に感じるか?で変わってくるんだろう。
「権力を行使できるようになったときに役割を演じる」ってのはそうだろうね。
役割と同時に権力が与えられるんだろうからね。
でも、副社長の話は、それ以前の話な気がするわw
立場が変わると思想や信条を変えてしまう人は多い。
まあ、「自分が心地よく生きるために、後付けで思想や信条をツギハギする」という姿勢は変わっていないけど…。
俺だって多かれ少なかれそういうことしているんだろうしな。
>「役そのものになる」ことは問題、「役を演じる」ことは必要。
うん、その通りだと思う。
「役を演じる」ことは前提にして書いていました。
自分の文を読み返したら一言も書いてなくて驚いた。
親を演じること、大人を演じることについて、最近考えることが多い。
これについては、また後でブログに書く予定。
こういうのって長く書いてるとわからなくなってくるよな。

結局のところ目的がどっちむいてるのか読んでてさっぱりわからんちん。作品評なのか…それに伴う何かのか…
後日談に期待します。
…なんにせよ、自問というのは必要だ。