と思っています。
受け手が、受け取るだけの器をもっていない場合、
作品の良さを受け取れないことは往々にしてある。
というよりも、作品は人に鑑賞されて初めて作品としての価値がきまる(と俺は思っている)から、
(その立場に立つなら)見た人が感じるものがすべて、だ。
先に良さが決まっていて、それを感じられる人、感じられない人がいるわけではない。
だから、どんな作品を見るときでも、
良さが分からないときは、発言について慎重になってしまう。
というのも、自分が見て「すごい!」と思うものが「さっぱりわからない」という人がいるわけで、
そういう意見を見ると「これの良さがわからないの?」とちょっと失望するとともに残念に思うことがあるからだ。
だから、あんまり感じるものがなかった作品にであったとき、
「俺はこれの良さが分からないだけなんだな」と考え、
見る時期が違えば、向き合っている問題が変わっていれば、
考え方がかわっていれば、何かきっかけがあれば、
その良さがわかるのだろうと考えるようにしている。
一般的に評価が高く、自分にとって良いと思えないものは、
きっと俺のアンテナがその方向に立っていないんでしょう。
逆に、一般的な評価なんて関係なく、
「俺はこれを良いと思う!ぜひ見てほしい!聞いてほしい!」
って思えるものもあるし。
一度「は?」って思ってしまった作品でも、
考えていることが変わったりすると評価が激変したりする。
一度そういう体験してしまったら、
自分の評価ってものが、いかに危ういかよくわかる。
だからこそ、いいと思ったものについて「いい」、と語ること、
そして「どうしてそう思ったのか」を語ることが大事だと思っているのです。
「こうみたら面白いよ」だとか、
「こう考えさせられた」とか。