大田原市議会議員、ほしまさと(星雅人)のブログ。子どもの味方、学童保育指導員。「多様性」と「対話」を大切にし、ともに社会課題を解決する市政を目指し奮闘中。


by hoshimasato
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12月26日、佐野市文化会館で行われた憲法フォークジャンボリーに参加してきた。
ウッドランドリンギングさん、はらっぱエイサー隊、坂入健太くんら、ピースライブで一緒だった方々も多く参加。

実行委員会にも呼ばれていたのだけれど、全然参加できず、流れをほとんど知らないまま当日司会を務めることに。
会場の準備をし、司会のための出演者インタビューをし、自分の出番もあり、何かと忙しい1日だった。

下は赤ちゃんや幼児から、上は三途の川を一旦越えて戻ってきたの方まで(笑)、幅広い出演者!長ーく活動している歌い手さんも多い。
また、ステージの後ろには「戦争の放棄」の幕、横には大きな「はだしのゲン」の幕と、ある意味政治的な主張に直結するようなイベント。
お客さんの層は、比較的高い。
こういった面から、今までに出たことのない雰囲気のイベントだったので、いろいろ感じるものがあった(佐野のピースライブは似ているところあるけれどね)。

僕は、9条は何としても護るべきだと思っているし、「戦争の放棄」もすべきだと思っている。
でも、なんだろう、それを大声で叫ぶことには、歌うことには、何かわだかまりがある。
わだかまりまで行かなくても、違和感というか、むずがゆさというか。

僕がステージでうたう歌の歌詞や、普段の生活の中で話す言葉は、
常に自分の意図どおりに解釈されるわけではないし、
それでいいと思っているのだけれど、
それがあるコードの上で一色に染まってしまうような感じというか。
(考えすぎ?気にしすぎ?)

こういったものに限らず、集団で何かをやる時に、どこか居心地の悪さを覚えてしまうことが多いのはなんでなんだろう。
結構多くの場所でこのような気持ちを感じてきたんです。
あっちでやっていることが楽しそうで、その輪の中に入りたいんだけれども、どこか線を引いてしまう部分があるというか。
司会やって、中心で楽しんどいてなんですけど。

これは、僕の問題なのか。
僕1人の問題じゃなく、世代の問題の様にも思うことがあるんだけれどなぁ。
なーんてことを考えたりしました。
いつもはあまりこういう戸惑いを口にはしないんだけれども今回はあえて書いてみた。
(フォークジャンボリーを通してそういった戸惑いすらも受け止めてくれそうな度量の大きい人たちが世の中にはたくさんいるという実感が持てたから書いてみたくなったのかも)


トリは笠木透さんと雑花塾さん。
僕は笠木さんのことは伝説のフォークシンガー、と名前は知っていながら不勉強で曲は全然知らないまま当日を迎えたのだけれど、
面白くてパワーのある、すごいおっちゃんだった。
飲み会で絡んで、歴史認識についての質問をしてみたり、子どもの遊びや文化のことなどを話したりしたのだけれど、そのあとに、子どもにはこういう歌を歌うんだよ、といって替え歌を使った下ネタを披露してくださった。子どもにはまだ早いだろうエロネタも・・・w
とにかく笑った。フォークの真髄を見せてもらった気がした。
雑花塾の増田さん、佐藤さん(ヒューマンファーマーズ)らもとてもオーラのある方。
生活や遊びの中から曲を紡いで生きてきた人たち。
見せてもらったのは片鱗でしかないのだろうが、発する空気に当てられた。
感化されて帰ってきた。

とてもいい1日だった。
見に来てくださった皆さん、参加者のみなさん、実行委員会のみなさん、お疲れ様でした!!
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by hoshimasato | 2010-12-26 23:59 | イベント
その後、「募金が集まれば渡航して臓器移植の手術は行えるが、外国でも同じように心臓移植手術を待っている人がいて、順番待ちの列に横入りするようなことになってしまう」という話を聞いた。

列に割り込ませてその1人が助かっても、結局列の後ろの方の1人が助からない。
それじゃあ意味ない。
他の国の人の命を金で買ってるようなもんじゃないか。
となると、問題はむしろその手術が日本で出来ないことなのではないか。
そこをクローズアップせずにいたら、よしきくん1人の命が助かったところで、何も変わっていかない。
なんだかすこし虚しくなる。募金活動していた人たちはこういうこともしっているのかなぁ、と気になる。

僕もものすごい興味があったわけではないので、わざわざ細かく調べることはしなかったけれど、気にかかることだったので新聞やらテレビやら、誰かから聞いた話やらから少しづつ情報は得ていくことになる。

現時点で、一番しっかりこの問題について書いてあると思っているのは、国立循環器病センターの名誉総長川島さんという人が書いた文。HPなのでURL載せます。
http://www.ncvc.go.jp/cvdinfo/pamphlet/pamph54.html

日本は提供される臓器が少ないこと。死生観の問題、法の問題。
そういう問題だったのか!と驚いた。

皆の財布の中にあるお金でよしき君が救える、というのは事実だ。
でも、今後よしき君と同じような子を救いたいならば、本当に考えなくてはいけないことは、
「自分が脳死になった場合に臓器を提供できるか、大切な人が脳死になった場合に臓器を提供するのを許せるか」ということになるんだろう。

続く
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by hoshimasato | 2010-12-20 23:59 | 学童
街頭募金の目的のトップはもちろんお金を集めることなんだろうけれども、それだけではなく、「こういう問題があるんだよ!」ってことを多くの人に知ってもらうために行われるんだろう。

僕はその街頭募金をきっかけに拘束心筋症を知った。
50万分に1人。それが拘束型心筋症の人の割合らしい。

50万人子どもが生まれたら、その中に1人くらいは拘束型心筋症の子がいる。
となると、1人や2人はそういう子がいる。
そういった子を救うためには、毎年毎年誰かが募金を集めなくてはいけない。
うーむ。
とすると、募金もさることながら、そういう子のところにお金が行くようになる仕組みを整えるべきなんじゃないのか。
でも、他の病気でもそれくらいのお金を出したら助かる人はいっぱいいるのかも。拘束心筋症だけ特別扱いは出来ないのかな?病気に限らず、同じお金使うなら救える命が他にもあるのでは?
そもそも、医療技術の進歩にしたがって、昔は死んでしまっていた人も生きられるようになったけれど、どこまでやるべきなんだろうか?(自分の身近な人がなってしまったら何としてでも助けたいと思ってしまうだろうから、そういう状況になる前に考えなくてはね)

と、まあそんなことをぐるぐると考えるわけです。でも細かく調べはしない。
その場ではよしきくんに助かってほしい気持ちはあるから、とりあえず小銭を入れる。
でもなんというか釈然としない気持ちがどっかに残ったままでいることになる。

続く
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by hoshimasato | 2010-12-19 23:59 | 学童
そんな風にサンデル先生みたいに考えて、次には、僕にビラを渡した人や駅に立っている人たちに想像が及ぶ。
蛍光グリーンの帽子と上着で、それぞれビラやのぼりや募金箱を持っている人(正直、僕がビラをもらったときに本当にこの格好をしていたかと言われたら揺らぐけれど。ところでなぜ募金活動する人は蛍光グリーンの人が多いのか)。
大半がおじさん、おばさん。
あの人たちはどういった経緯で、どういった気持ちでそこに立っているのか?

どういった人が立っていたら僕は納得できるだろう(別に彼らは僕を納得させるためにそこに立っているわけではないが)。
逆にいえば、よしきくんとどういった関係だったら僕は募金に立つだろう。

両親だったら。自分の子を死なせたくはない。だけどとても自分たちだけでどうにかできるような額ではない。そこで募金活動をはじめる。あり得るかも。
祖父母や親戚だったら、近所の人などの小さいころからのよしき君を知っている人だったら。よしきくんの現状を聞いて、活動に参加。うん、あり得る。
(ここら辺まで考えた時に、ここまでに出た人たちでも本気を出せばこの子を救うお金は集められるような気もしてくる)
そして、同じような子、孫を持っていたら。
上記のような人に「一緒に活動して」と誘われたら。

結構、立ってしまうのかもしれない。

続く
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by hoshimasato | 2010-12-18 23:59 | 学童
学童から少し離れて心臓移植の話。

僕が大宮で働いていた頃、駅で募金活動を行っていて、おじいさんから一枚のビラを渡された。
男の子の写真があって、よしき君というその子が拘束型心筋症という病気であること。
日本では出来ない手術で(心臓移植が)、その子の命を救うのには何千万円というお金がかかること。
そんなことが書かれていた。

この手の話には、昔から(いつからだ?)とても複雑な気持ちになってしまう。
どう距離をとったらいいのかがわからない、不安定な感じ。
ふらりと近づいてしまいそうになる心を知識でグッと押しとどめるからそうなる。

まず、パッと頭に浮かぶのは、小さいころから何度も聞いたことがある、「100円で○○の子どもの命が救える」といった類のコピーのこと。
仮に1000万でよしき君救えるなら、どっかの国の子どもなら10万人救えるな、なんて、暗算してしまう。
アフリカの子どもたちもよしき君も僕にとっては変わらない、遠い場所にいる、子ども。
死んでしまうことを知ったら悲しいけれど、一生会うこともないであろう、子ども。
僕の生活には何の影響もない。

命の重さは比べられないようだけれど、比べられないものがひとつと10万。
子ども1人の命と子ども10万人の命だったら10万人を救う方がよくない?

続く
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by hoshimasato | 2010-12-17 23:59 | 学童

書きたいことは

書きたいことはこういうことじゃなくて。
違う道筋を辿らなくちゃいけない。
明日から軌道修正します。

もっともっと書きたいことがあるんだよ。
もっと素直に。
怖がらず。
ちっぽけでいいじゃないか。
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by hoshimasato | 2010-12-16 03:56 | 思考・態度
この3点を持って、若い人も学童保育にいるべきだ、という説明ができただろうか。
でも「いるべきだ」、と思っても、若い人はサイレントマイノリティ、どんどん消えていってしまう。
この地域には若い人が長く働いて学童をよくしていく、という考えはない。
そういう方向に変えようとしていない。
自分がこの地域にいることで「若い人もいられる形を整えたほうがいい」という風に多くの人に思ってもらえるよう頑張っている。
まだまだ頑張りが足りないようだけれど。

これも僕が学童保育の指導員をしている理由の一つ。
自分の地域を出ると、同じように他の地域で学童保育の問題を考えている人に出会える。
それぞれの地域で学童保育をよくしていこうと学童を作ったり、いろんな方面に働きかけたりしている。
そういう人たちにたくさんの元気や知識、ときに食糧(本当にありがたい)をもらいながらなんとかやっていってます。

同じ地域でも学童について考えている人との出会いもちらほらあり、ちょっとずつ仲間と呼べる人も増えている気はしてる。
でも、他の指導員さんから「教員免許を持っているのにもったいない」「大学を出ているのにもったいない」などの話をされることも多くて。僕のことを思って言ってくれているのかもしれませんが、なんだか悲しくなる。
そんなものには負けてられないけれど。

さて、「なんで学童保育の指導員をしているのか?」の①~⑱までで、僕が学童に関わることになった理由を、
そして⑲~今回までで、学童に若い人がいたほうがいいと思う理由の説明をしてみました。
⑲からはちょっと自分でも肩肘張った感じでつかれたので、次の“その30”からはまた学童と全然違った場所から入ってみたいと思います。

一時期会う人会う人と話していた、「心臓移植の募金」の話。

続く。
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by hoshimasato | 2010-12-15 23:59 | 学童
うちの地域では、60歳になると、学童を辞めてしまう人が多い。
その理由を聞いてみると「子どもの遊びに体力的についていけないからだ」という。
(まあ、シルバー人材のみで学童をやっている地域もあるんですけどね…)
だが、いろんな昔遊びを知っていたり、工作や編み物が得意だったり、学童の中でまだまだ活躍できる場所がある人たちが学童から去ってしまうのはもったいない。

働いている層が同じ年代なので、似たような役割を求められてしまうという状況があるが、もっといろんな年代の人が入って、それぞれに適した役割分担を行えば、もっと高齢の層だっていられるようになるのではないか。

例えば、
若い人が遊びの中(特に外遊び)に積極的に入っていって、
中年層が学童の屋台骨として全体を把握しながらバランスをとって動き、
高齢者層は、室中での遊びやものづくりを受け持つ。

チラリとどこかで聞いたのだけれど、アメリカの保育では、年代別の役割分担をしたりするらしい(ずいぶん適当)。
多分違う言葉で説明されたと思うんだけれど、僕の中で勝手に納得してしまったので、僕なりの解釈でまとめると、
20~30代の指導員は、子どもと似た立ち場、共感的な役割。
40~50代の指導員は、子どもに厳しい立場、指導的な役割。
60歳以上の指導員は、子どもに優しい立場、受容的な役割。
こんな感じだったと思う。

それぞれが力を出せる場所で持てる力を発揮する。
そんな形の学童にしていけたらいい。

まあ、細かい話は置いておいても、子どちいきもたちもいろんな年代の大人と接しながらの方が、いい感じに育つ気がしません?

続く
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by hoshimasato | 2010-12-14 23:59 | 思考・態度
わかりやすい変化としては、就労状況や、世帯の人数。
専業主婦の割合がどんどん減って、若い人の非正規雇用や共働きの世帯も増加している。
そして、3世代同居の家庭もどんどん減少している。
これらの変化がいいことだ、悪いことだ、というのではなく、家庭の有り様は常に変化している、ということを受け止めないといけない。
自分たちの時代の常識を軸にして学童を見てしまうと、ミスマッチが起きる。

学童で働いている若い人は、今後自分が利用者になるかもしれない、と考える。
今の雇用の状況や、自分が置かれている待遇を見たら当然だ。
なので、自分のこととして今学童の保護者が抱えている問題と向き合える。
とくに、非正規雇用で働いている親に共感できるのは、同じような雇用情勢におかれている若い指導員だろう。
自分が子育てをするときに、学童がこれからの親を支えられる体制になっているか、そういった目を指導員が持っていることは、とても重要だと思う。
「喉もと過ぎれば」というが、「わたしたちの頃は・・・」という発言ばかりでは、何処へも進めない。

社会・地域の状況ももちろん変化してきている。
ここが実は子どもにとっては一番大きいのかも知れないが、これも遊びとの関連で述べたいので後に回す。

次は若い人も学童にいたほうがいい理由、3つ目。
『③高齢になっても学童保育で働ける人を増やすため。』です。

続く
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by hoshimasato | 2010-12-13 23:59 | 思考・態度
あまり計画性なく書いているので、だんだんよくわからなくなってきたのですが、続けます。
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「自分たちと世界を共有できる部分があって、なおかつ自分より多くのことを知っている人」
という、先輩、アニキ的ポジションを、若い人が担えばいいと思うんです。
何か言うときにも、上からではなく、斜めから、横からになる。
そういった視点がもう少し学童にあったら、子どもたちのより居やすい居場所が作れるのではないか。
(本当は遊びの話をもっともっとしたくってうずうずしているのだけれど、あとでまとめて話す。)

さて、若い人も学童にいたほうがいい理由、2つ目。
『②常に、“現在働いている親”に共感的な学童を作っていくため。』

学童は、決まっていることが少ない。
カリキュラムもないので、これを絶対にやらなくてはいけない、というものがない。
なので(だから?)、子どもの発達を考え、今の学校との、今の家庭とのバランスを考えながら、柔軟に変わっていく必要がある。

ゆとり教育の時代には、授業時数が減って土曜日の授業がなくなった。今後はゆとりの揺り戻しで学校の授業時数が伸びる。子どもたちが学校で過ごす時間の長さが変わるので、おのずと学童で過ごす時間も、その役割が変わってくる。

学校の変化もだが、家庭の有り様は、もっと大きく変化している。

続く
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by hoshimasato | 2010-12-12 23:59 | 思考・態度